【古典文法】助動詞その七【お久しぶりです】

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こんばんは、しめじです。

今夜は、久々に助動詞の話をします。
授業の早い進学校とかだと、過去やら完了やらの「き、けり、つ、ぬ、たり、り」あたりは終わっているでしょうから、夏休み明けの授業に向けた予習のつもりで読んでもらえればありがたいです。
また、たとえば2年生や3年生でも、今日やる助動詞は結構怪しい人が多いと思います。復習、大事ですよ。

それに、今日の日本語にも結構そのまま残っている助動詞ですので、「あー、だから今の日本語でもこうなっているのかー」とも思える内容なのではないかと思います。

自発、受身、可能、尊敬の助動詞「る、らる」

目次

1 活用表
2 接続について
3.1 用法について
3.2 用法の見分けについて

1 活用表について

 こんな感じです。
 活用は、共に下二段活用型です。

 この助動詞、語源は「ゆ」だと考えられています。

 たとえば、文語には、「覚ゆ」「聞ゆ」「見ゆ」などの語があります。
 今の日本語に訳すと、「思われる」「聞こえる」「見える」となります。
 たとえば「聞こえる」「見える」は「聞くことができる」「見ることができる」という意味でも用いるのでちょっと紛らわしいですが、この三つ全てに共通する使い方としては、「自分はそうするつもりは無いけれども、そうなってしまう状態」を表すというのが挙げられます。

 たとえば「見える」は、自分が見る気がなくても視界に入ってくる時に使いますし、「聞く」も同様。

 ここから先は、「3 用法」で書くので一旦おいておきますが、この「ゆ」が「る」に変化していったものが、助動詞「る」である、と考えられています。

 で、この「ゆ」が、ヤ行下二段活用なので(今の「見える」「聞こえる」も下一段活用ですもんね)、「る」も下二段活用型だ、ということだそうです。

2 接続

 「る」と「らる」、どちらも未然形接続となりますが、「何の」未然形に接続するかが違います。

る•••四段活用、ラ行変格活用、ナ行変格活用の動詞の未然形。
らる•••それ以外の動詞の未然形。加えて、一部の助動詞(「す、さす、しむ」)の未然形。

 となっています。

 さて、この違いはなんでしょう。

 ベタ暗記すると結構めんどくさいので、どういう理屈でこの接続の違いが発生しているのか考えてみましょう。

 「あるなし謎々」の要領で考えます。

 四段、ラ変、ナ変にあって、それ以外の活用にないもの、なーんだ、という具合です。

 答えは、四段、ラ変、ナ変には、「未然形にあ(a)の音がある」となります。
 他の活用は、未然形があ(a)の音になりません

 だから、未然形があ(a)の音にならない活用の未然形には、「ら(ra)」を加えて、「る」自体はあ(a)にくっつくようにしている、と考えると、何に「る」が接続して、何に「らる」が接続するのか、憶えやすいのではないかと思います。

 さてさて。

 と考えると、これは今の日本語でもほぼ同じルールが使われているということがわかります。
 ちなみに、「る、らる」は、今の日本語では「れる、られる」です。

 最近は口やかましく指摘する人がめっきり減りましたが、「ら抜き言葉」ってありますよね。(現代文の記述でやると今でも減点されることもあるので、「きちんと書く」場面ではまだまだちゃんと意識してくださいね)

 たとえば、「食べられる」が正しくて、「食べれる」は「ら抜き」。
 「入れられる」が正しくて、「入れれる」は「ら抜き」、といった具合です。

 これらも、この「れる」がつくのは原則として未然形があ(a)の音になるもの、「られる」がつくのはそれ以外、というのが今日の文法にも残っているから。

 ちなみに、たとえば「頑張る」に「れる」をつけても「頑張られる」とはなりません。これは、五段活用の動詞を下一段活用動詞にしたものを「可能動詞」と呼んで一つのカテゴリー化しているからです。ですが、この可能動詞は原則として元が五段活用でなければなりません。「食べる」も「入れる」も下一段活用の動詞なので、基本的には「未然形+られる」という構造になる、と考えられています。紛らわしいですが、一応別物ということになります。
 さらにいうと、この「可能動詞」の発生は室町時代以降と考えられていますので、一般的に高校古典の授業で扱う文章のほとんどには登場しない、ということになります。

3.1 用法について

四つです。

①自発
②可能
③受身
④尊敬

 ①の自発が、オリジナルの意味と考えられています。

 「1 活用」でも書いた通り、自発の意味を表す「ゆ」が語源であるならば、それはもう自発が元だよね、という話です。

 では、残りの三つはなんなのか。

 まず、「可能」ですが、たとえば、1+1の答えってなんですか?

 2、ですよね。一般的には。

 これを、わざわざ意識的に計算する人って、どれくらいいるでしょうか。ほとんどいませんよね。意識しなくても、答えを考えようとしなくても、自然と答えが頭に浮かんできてしまう。そして、答えが合っているということは、計算できている。

 つまり、自然と、そうするつもりがなくてもそうなる、ということは、それができる、ということです。
 だから、「可能」の意味が生まれます。

 続いて、自分はそうするつもりはなくても、そんな状況になってしまう、という場合。たとえば、自分はそのつもりはなくても、相手が自分を怒っている状況になってしまう、そんなこと、しょっちゅうあります。「怒られる」というやつですね。
 そこで、「受身」という働きも生まれました。

 最後に、自分はそうするつもりはなくても、そうなってしまうことって、たくさんあります。
 それでいいことが起きたりすると、「日頃の行いがよかった」とか言ったりしますし、あるいは「神様の思し召し」なんて言ったりもします。
 自分はそうするつもりはなくても、神様とか、仏様とか、何か人知を超えた大きな存在がその状況を生み出している、というところから、自分が畏敬すべき対象がなしたことにも「る、らる」を使いました。つまり、自分より上位の存在の成したことに対して使った、ということです。
 だから、「尊敬」の用法も発生します。

 というわけで、四つの用法は全てバラバラのものに思われますが、全てに共通するのは「自分の意志ではない、自分の意図によって成されたことではない」ということです。そう考えれば、この四つの用法があることも納得いくのではないでしょうか。

 また、「自分はそうするつもりな訳ではなかった」わけですから、接続も未然形になります。自分が自分の意図でそうしたわけではないですからね。と考えれば、接続もなんとなく理解できるように思います。

3.2 用法の見分けについて

 さて、用法が四つあることはわかりました。

 でも、文章の中でパッと助動詞が出てきて、用法が四つもあると、「どれだろう?」と結構不安になります。

 というわけで、最後は、そのざっくりとした見分け方の、大まかなパターンについてお話しします。
 もちろん、全ての場面でこの方法で行けるわけではありません。ただ、用法の内容から考えて、必然的にこういう使い方になる場面が多いよね、という考えの枠組みは持っておいて損はなかろうと思います。

自発の場合

 たとえば、「ふと〇〇してしまう」「思わず〇〇してしまう」の〇〇に言葉を入れて、短文を作ってみましょう。

 ふと思い出してしまう。
 ふと考えてしまう。
 思わず泣いてしまう。
 思わず笑ってしまう。
 思わず驚いてしまう。
 思わず怒鳴ってしまう。
 思わず食べてしまう。

 最後のは、まあ、美味しそうだったんでしょうね。
 作ってみて、どうでしょうか。もちろん最後の「思わず食べてしまう」というようなケースもありますが、全体的には、「思う、考える、泣く、笑う、怒る、驚く」などの、心の動きを表す動詞が入ることが多いのではないでしょうか。

 例えば今の日本語の「思われる」「考えられる」という語を考えてみても、

 明日は雪の予報なので、いつもより早く家を出た方がいいと思われる。
 以上の証拠から、犯人はあの人だと考えられる。

 のように、「うーん、どうなんだろう」とわざわざ考えなくても、予報や証拠といった外的要因から自然とその発想に至る場合に使われることが多いのではないでしょうか。
 このように、自発という用法は、自身の心理的働きと強く結び付きます。
 したがって、「る、らる」が付く語が、心理的な働きを示す語であれば、「自発」の可能性が高いと考えて問題ないと言えます。
 (ちなみに、今日「自発的」というと、「積極的、自主的、能動的」と同じような意味で使われるのを目にすることも多いですが、用法としての「自発」の「自」は、「みずから」ではなく「おのずから」のニュアンスで使われているということもわかるかと思います)

可能の場合

 これは、言い方がかなり微妙なんですが。

 直後に打消がある場合は、用法が「可能」である可能性がある。

 という説明になってしまいます。
 平安時代までは、下に打消をともなって、「〜できない」という表現で使われることが一般的でした。
 ただし、鎌倉時代以降は、単独で「〜できる」とすることもあったので、これについては、特に傾向らしい傾向を言うことはちょっと難しいです。

受身の場合

 今の日本語の受身でもそうですが、受身って、「誰からされたか」と言う情報が必要ですよね。
 「先生に叱られた」「親に褒められた」「兄にプリンを取られた」などなど。
 ですから、前に「誰々に」と言う情報が書かれている場合は、受身の可能性を考えても良いと思います。
(もちろん、「先生が生徒に話される」のように、単純に動作の対象、相手となっている場合もあるので、そこは慎重に考えましょう)

尊敬の場合

 尊敬、つまりは敬語になるわけですから、その動作の主語が尊敬語が用いられる相手であるのは必須条件となります。たとえば、自分の動作に尊敬語を用いるのは極めて稀ですからね。
 と言うことは、その主語が高貴な人などであれば、尊敬として使われている可能性がある、と言うことになります。
 また、「る、らる」が尊敬として使われる場合、直前も尊敬語である場合も多いです。

「仰せらる(仰す+らる)」「召さる(召す+る)」

 と言う具合。
 この場合は、この「る、らる」も尊敬である場合が多いと思います。

 大体、こんな感じです。
 ただし、注意してほしいのは、あくまでこれらは「よくあるパターン」の域を出ない、と言うことです。
 全てがこの方法で判断できるわけではありません。
 そして、全てを完璧に判断できるパターンは存在しません。

 なぜなら、古文を書き残した時代の人たちは、当然のことながら四つの用法なんて意識して話していないからです。「る、らる」はあくまで「る、らる」でしかありません。

 私たちも、話しているときに、文法は意識しませんね。いちいち助動詞を口に出すときに、「これは可能の『れる』!」なんて思いながら「れる」って言う人はいません。
 だから、厳格なパターンが存在するわけではない、と言うことです。

 なので、基本はとにかく、「よく読む、そして、よく考える」、これに尽きると思います。
 そして、よく読むために、他の語彙の知識も必要です。よく考えるためには、反復練習も必要です。
 手っ取り早い攻略法とか、助動詞をワンパンする方法とかはありません。
 地道に、取り組んでいきましょうね。

 では、今夜はこの辺で。


 

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