古文単語を憶えるのに苦労している人へ。

 こんばんは。しめじです。

 今夜は、古文単語の学習について、少しお話をします。

 文法の学習と並んで大事になってくるのが単語の学習、つまり語彙の増強です。
 どれだけパズルのルールが分かっていても、肝心のピースがないのではいつまで経っても完成しません。同時進行で進めていく必要があるのですが。

 古典の単語、理解したり訳をおぼえたりするのに苦労している方も多いのではないでしょうか。

 例えば、「まさなし」という形容詞。

 古典の単語帳が手元にある人は探して見てください。高校生向けの古典単語帳で「まさなし」を載せていないものはないはずなので。

 高校生でない方は、手元の古語辞典を引くか、検索をしてみてください。

「まさなし」は、辞書ではこのように説明されています。

よくない。不都合だ。見苦しい。予想外だ。
(文脈に即して訳語を考えること)

 意味はこんなにたくさんあるぞ。どの訳使うのかは文脈見て考えろと、辞書にまで堂々と書かれています。
 英語の勉強でもそうですが、対応する訳がたくさんあって、覚えるのが大変、とついつい思ってしまいます。

 そこで、国語教師からの提案なんですが。

 訳を全部覚えるのはやめましょう。

目次

  1. 「まさなし」の場合。
  2. 「かたはらいたし」の場合。
  3. 「めでたし」の場合。
  4. 「飽く」の場合。

「まさなし」の場合。

 漢字で、「正無し」と書きます。
 ということは、「正」ではないんです。

 だから、当然良くはありません。

 「正装」とか「正式」の「正」だと考えると、きちんとしていない、みっともない、崩れていて見苦しい、という意味にも取れます。

 道理にかなっていること、不合理がないことも「正」ですから、そう考えると、道理にかなっていない→不都合でよくない。不都合なことはだいたいいきなり起こるから予想外だ、という風に語義が発展していきます。

 とにかく、「正」の字の持つ雰囲気の反対の物事全部が対象だ、と大雑把に捉えてしまうと、文脈判断もしやすくなると思います。
 辞書には書かれていないことが多いですが、高校生向けの古文単語帳は大抵語源となる漢字が書いてあります。絶対にその漢字も見ましょう。

「かたはらいたし」の場合。

 今、私たちが「かたはらいたい」というと、「片腹痛い」と書いて、脇腹が痛いほど笑う→ばかばかしくてくだらないというような意味で使います。

 が、古典の「かたはらいたし」は全く別の意味です。

 「傍痛し」と書きます。
 「傍(かたはら)」は、側、となりという意味。
 つまり、「隣で見ていて痛々しい気持ちになる」という意味です。
 したがって、実に見苦しいというような意味になります。

 「片腹痛い」は、「傍痛し」を間違えて使ったのがそのまま定着してしまったことばで、もともとは存在しませんでした。

 漢字を理解すれば紛らわしい思いもしませんね。

「めでたし」の場合。

 「めでたい」というと、合格したとか、優勝したとか、入選したとか、結婚したとか、子どもがうまれたとか、就職したとか、出世したとか、卒業したとか、目標を達成したとか、そういう「よいこと」があった時、祝ってあげたい、喜びを分かち合いたい、そういう感情を表す言葉ですね。

「めでたい」は「めでたい」としか言いようのない気がしますが。

 古文のテストでは「めでたし」を普通に訳せと言ってきます。

 古文での「めでたし」は「すばらしい、美しい、見事だ」という意味もあります。「喜ばしい、祝うべきだ」もありますが、これはややあとで生まれた意味です。

 「めでたし」は漢字で「愛でたし」。
 「目出度い」は当て字です。

 「愛づ」は今の日本語の「愛でる」。
 「〜たし」は、願望の助動詞と言って、「〜したい」を表します。

 つまり、何かを見たときに、思わず愛でたくなるような、そんな気持ちにさせるものごとに対して使われた形容詞です。
 だから、そのものごとの種類に応じてすばらしい、美しい、見事だ、などと訳を当てます。

「飽く」の場合。

 この単語、高校生向けの古文単語帳には結構序盤に登場します。

 理由は二つあって。
 一つ目は、今の日本語における「飽きる」とは反対のイメージを訳に持つから。
 二つ目は、今の日本語における「飽きる」とは全く異なる活用をするから。

 二つ目については、今回の主題と関係ないので置いておきます。
(一応書いておくと、今の日本語の「飽きる」は、「飽きない、飽きて、…」と続くのでカ行上一段活用の動詞ですが、「飽く」は「飽かず、飽きて、…」と続くのでカ行四段活用の動詞だから注意してね、っていう話です)

 今回お話ししたいのは、一つ目です。

 現在の「飽きる」という言葉がもつイメージは、どちらかというとネガティブで、うんざりしたとか、つまらなくなったとか、そんな辺りになるのではないかと思います。

 ところが、「飽く」を古語辞典や古文単語帳で探すと、「十分満足する」という訳が最初に出てきます。逆やん、という話です。

 しかしこれも、仕組みとしては実に単純明快です。

 要は、「飽きる/飽く」は、No Thank You だ、ということです。

 例えば、どんなに美味しい食べ物でも、ずっと食べ続けていたら飽きます。
 マックのハンバーガーを食べ続けるとどうなるのか、というのを実験して、日々の変化を記録したドキュメンタリ映画に「スーパーサイズ・ミー」というものがありましたが、例えばどんなにマックが好きでも、毎日毎日、1日3食、1週間21食食べれば、大抵の人は嫌になります。

 22食目のマック、No Thank Youですよね。これが今の「飽きる」のイメージ。

 一方の「飽く」について。
 久々に期間限定で販売されたチキンタツタ、やっと食べられました。朝ごはん抜きでお腹を準備し、2個注文して、ポテトもLにサイズアップ、満喫しました。

 さて、もう一つ食べますか?
 もちろんお腹が空いていれば、三つ目行っちゃう人もいるとは思いますが、例えばもう満腹で、久々のチキンタツタを満喫したら、その場合もNo Thank Youですね。

 でも、22食目のマックの時みたいに、別にチキンタツタが嫌になっているわけではありません。単純に、満足したから、十分に満たされたから、これ以上はいらないよ、という状態。

 これが「飽く」です。
 だから、「飽く」は、十分満足する、と訳します。
 つまり、これら両者は、全くの別物ではなく、歴史の中で不可解な意味の変化を起こしたわけでもない、ということです。

 

 という具合に、「その言葉のもつ元々の意味、ニュアンス、感情」を知り、それを理解できれば、概ね正しく訳をとることができます。

 特に、日本語における形容詞は「ものごとのようすを表す」というよりは、「そのものごとから受けた自分の感覚、感情、心情を表す」という側面が強い品詞です。
(「あはれ」とか、「をかし」とかはその筆頭です)

 訳が色々あるし、今知っている単語とも微妙に違うし、覚えにくいなあ、という人は、ちょっと意識してみてください。

 では、今夜はこの辺で。

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