【オトコク】「漢文」という科目を巡る盛大な誤解。

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 こんばんは、しめじです。

 前回は、「古典不要論」というものについて、私の立場を(大凡自分の備忘録として)書いてみました。

 さて、今夜は、「古典不要論」と、ほとんどといって良いほどセットで顔を出す、「漢文いらんやん」について、私の立場を(おなじく、自分自身の備忘録)として、書いておこうと思います。

目次

1 漢文にまつわる、すごくよくある誤解。
2 漢文は、中国語を勉強する科目などではございません

1 漢文にまつわる、すごくよくある誤解。

 百歩譲って古文という科目は重要だ、という人の中にも、「でも、漢文はいらんやん」という人って、結構多いんです。

 古文いらんやん、という人は、100%といっても過言ではないほど、漢文はもっと要らないといいます。古文は要らないけど漢文は要る、という人には、少なくとも私は出会ったことはないです。もちろん、会ったことがないだけで、「いない」ことの証左にはなりませんが、少なくとも、少ないだろうとは思います。

 そういう、漢文要らない派の人がよく言うのが、「だって中国語でしょ、日本語ですらないじゃない」というものです。なんならば、「漢文勉強しても中国語読めるようになるわけでもないし、ましてや話せるようにもならない」とまで仰っているのを耳にすることもあります。

 ただ、はっきり申し上げて、誤解です。

「日本語ですらない」は、全くの誤りで、純然たる日本語の話ですし、日本の古典的言語文化、言語技術の話を漢文では扱います。

 また、「中国語読めるようにならない」については、「読めるようになるよ」という意味での誤解ではなく、「読めるようになるわけがないんだから無理なことを勝手に期待しないでほしい」という意味での誤解です。

 手短にではありますが、その誤解について少し話したいと思います。

2 漢文は、中国語を勉強する科目などではございません。

 では、漢文は何を学んでいるのか。

 それは、世界的にみても結構珍しい、「直訳技術」と、それによって日本が受容して自国内に根付かせた言語文化です。

 「直訳」というのは、ここでは、もとの言語特有の言い回しなどをそのまま自言語に置き換えるなどしない訳、ではなく、もとの言語をもとの言語のまま使って、なおかつ自言語としても理解できるようにしたもの、という意味です。

 対になるのは、基本的には翻訳、になります。

 例えば、I love you. という英文があったとします。
 日本語に翻訳すると、私はあなたを愛しています。となります。

 このとき、翻訳されたものには、「I」も「love」も「you」も、いずれも含まれていません。

 しかし、例えば「吾愛汝」とあれば、「吾愛ス(レ)汝ヲ」(レは返り点)とすれば、「吾愛汝」というもとの言語の文をまったくそのまま用いつつ、「吾汝を愛す」という日本語として理解することができます。

 このような、もとの言語をそのまま用いつつ、自言語でも理解できるようにする訳の技術は、ほとんどありません。私たちが「訳す」という言葉を使うとき、イメージするのは、ほとんどの場合「I love you→私はあなたを愛しています」というような作業であるはずです。

 今から千何百年も前の時代の日本人が、当時の中国に倣って政治の仕組みや文化を成熟させていったというのは、日本史においては常識の物事となっています。
 そのような時代に、中国からやっとの思いで運んで来た書物を読み解き、自国の発展に与しようとして培ってきたものが漢文の訳技術でした。

 もちろん、この「直訳」は、語彙体系を元の言語のまま使うことになります。漢字で「吾」と書かれていたとき、中国語では当然「われ」とは読みません。これが、日本語の「われ」に該当する字である、ということは、もちろん訳す側が突き止めていかなければなりません。
(そういったことを突き止める必要があるのは、一般的な「翻訳」でも同様ではありますが)

 しかし、その過程で、今日でも我々が使っている「訓読み」の基礎ができていきました。たとえば、「おさめる」という言葉を漢字にしたとき、「納める」「収める」「治める」「修める」と、さまざまな同音異字が発生しますが、これらはもともと日本語にあった「おさめる(文語では「おさむ」ですが)」という語句の意味が非常に広かったことから生まれた現象です。

 また、今日我々が日常的に使用する語句についても、例えば日本語の中ではほとんど失われている意味が実はそのまま使われているケースも存在します。
 ひとつだけ例をあげると、「憎悪」はその典型的な例です。
 「悪」は漢文では「にくム」と読むことが多い字です。意味は、そのまま、「にくむ」です。従って、「憎悪」は、「にくむ」という意味の字を二字重ねた熟語だと理解することができます。ただ、今日、「にくむ」という動詞を「悪む」と表記することはまずありません。ですが、事実、こうして今でも熟語のなかで生きているわけです。

 そのような点から見ても、漢文は、歴とした、今の日本語に通じるベースとなっている言語文化を学ぶ科目です。立派な、日本語に関する科目です。

 従って、漢文の授業では漢文を中国語として読むことはありません。もちろん漢詩などは、その時代になされていたであろうと推測されている発音で朗読したものを参考程度に聞いてもらうことはありますが、中国語のまま朗読できるようになってくれなどと要求することはあまりありません(もちろん、漢文学などを専攻していた先生がそういうことをいうこともあるかもしれませんが、少なくとも学習指導要領のなかで、漢文を当時の中国語の体系のまま理解し読めるようになることは求められていません)。

 また、漢文の授業で触れる文章は、今の中国語(北京語、広東語のいずれとも)とは別の語彙体系、文法体系を持っています。もちろんまったく共通点が存在しないわけではないですが、基本的には別物と思ってもらっていただければと思います。
 だから、今の中国語も読めるようにはなりませんし、今の中国語が読めるようになる、というようなことを学習指導要領でも求められていません。

 というわけで、漢文が日本語の「古典」として扱われる所以については以上となります。
 じゃあ学校の科目に要るか要らないか、はまた別の議論ですし、その議論については前回書いたので割愛します。

 繰り返しますが、どの科目においても、それを大切と感じるのも大切ではないと感じるのも、基本的には個人の自由だと思いますので、そこに干渉する気はありません。私は好きです。それだけです。これはもはや、「金と愛、どっちが大事か」と同質の議題だと思っています。(無論、古典については学校の科目という社会的に影響の大きなものになっているので、当然別の観点が混ざっては来ますが)

 ただ、誤解したまま論うのはあまり良いことだとは思いません。
 少しでも、誤解が解けたらいいな、と思います。

 では、今夜はこの辺で。

 

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