古典不要論について。

 こんばんは、しめじです。

 今夜は、一度、国語教師として、あるいは、日本語の言語文化に関わる職業に就く人間として、これについて自分なりの立場のようなもの、を書き留めておきたいと思います。

 もちろん、そもそも正解不正解の存在する議論ではないので、自分の考えを押し付けようとか、そういう意図は特段ありません。ただ、もしも誰か一人でも、何か納得するものがあったり、腑に落ちる部分があったりしたらいいな、とくらいは微かに思ってはいます。

 あと、別にここで書く必要はないのですが、ちょっと前の記事までは頑張ってHTML弄って目次から各項目に飛べるようにしていたところ、自分の書いた文章を読み返してみると、そもそも頭から読まないと意味のないものが多いことに気づいたので、この機能いらないなって思いました。なので、最近は目次から飛べるようにはしていません。悪しからず。

目次

1 まず、古典要/不要論者は三つに分類される。
2 まあ、お好きにどうぞ。
3 スーダン料理とガイアナ料理、どっちが食べたい?
4 私たちはテセウスの船の乗員である、ということについて。

1 まず、古典不要論者は三つに分類される。

 これ、この議論について考える上での大前提です。

 なのに、これをすっ飛ばして話をする人が多すぎるから、話も噛み合わないし、平行線を辿ってばっかりな気がします。

 まずは、古典不要論者を、ちゃんとカテゴライズするところから始めましょう。
 結論から言ってしまえば、以下の三つに分かれます。

A (自分の生活では)古典の知識を生かす場面が存在しないので、(自分にとって)古典は不要だ。

B (Aのように感じる人が多数存在しているので)学校教育に古典の科目は不要だ。

C 古典という言語文化が、社会には不要だ。

「不要だ」という述語ばかりが強調されるこの議論ですが、大雑把に分けると「誰にとって、何にとって」がどうやらこの三つに分かれているようです。もちろん、それに反論する形で、「要」論者も三種類存在することになろうかと思います。
 ここからは、AーCそれぞれについて、私なりに思うことを書いていこうと思います。

2 まあ、お好きにどうぞ。

 まずはAについて。

 これはもう、「はあ、さいですか」以外に私が言えることはありません。

 古典の知識などが、その人の生活に役立つかどうかなんて、私には知りようがありません。そもそもその人がどんな能力の持ち主かもわからないので、そもそも生かすだけの能力がない場合だってあります。
 そんな人に「古典は役に立つ!」と言うのって、例えば私に最高級の鑿や鉋を渡して、「いい道具だぞ、使わないと勿体無い、というようなものです。いやいや、使えませんてば。

 生かす能力があったとしても、生かす必要のある場面に出くわすことがないまま時が過ぎることも当然多々あります。
 例えば私だって、第一宇宙速度と第二宇宙速度と第三宇宙速度の数字を実生活の中で活用したことはありません。おそらくそれを使って何かを計算する人がいるだろうことは想像できますが、まあ、私が知っていても私は役立てられません。私みたいな人間に持て余されて、第三宇宙速度もかわいそうですね。

 という具合ですから、まあ、何を役に立つと感じるかは人それぞれで、そしてそれにああだこうだと口を挟む筋合いも無いように思います。

 あなたが役に立たないと思うなら、それはあなたの役には立っていないんだろうから、まあ仕方がないんじゃない、という感じです。
 そういうレベルで言っている人に対して、いやいや役に立つよ、というのは、「私はイチゴを酸っぱいと感じる」という人に対して、「いやいや、イチゴは甘いでしょ」というようなものです。

3 スーダン料理とガイアナ料理、どっちが食べたい?

 では、続いてB、学校教育においての要/不要論について。

 皆さん、明日の夕食(今日の夕食でもいいですよ)、スーダン料理とガイアナ料理なら、どっちを食べたいですか?

 多分、多くの人は、答えられないと思います。
 答えようがないからです。
 なんで答えようがないかというと、知らないからです。スーダン料理も、ガイアナ料理も。

 例えばこれが、寿司と焼肉、とかだったら、選べると思います。中華とイタリアン、とかでも選べる人が多いはずです。なぜなら、知っているからです。どっちも。だから、自分の中で、どっちの方が好ましいか、考えることができます。

 つまり、知りもしないものに、興味なんて持てるわけがないし、やったことがないことに対して、上手いも下手も、得意も不得意もあるわけないんです。

 だから、学校教育にはさまざまなジャンルの科目が用意されています。人文科学、社会科学、自然科学、どれも学校の科目に(全てでは無いけど)用意されています。

 そうやって各種科目の学習をする中で、自分の得手不得手、好き嫌いを明確にしていくわけです。もちろん、どのタイミングで自分の得手不得手、好き嫌いの自覚が生まれるかは人それぞれです。だからまあ、ある程度の長さのカリキュラムが存在するのは当然だろうと思います。

 したがって、これは「古典」に限らず、どの科目も常に「学校教育の中にいるか、いらないか」の議論はされるべきだと思います。無論、学校教育に割ける子どもの時間は有限です。どうするのが最善であるか、は、常に考え続けられなければならないことです。

 あと、何もかも自分のペースで進まなければ気が済まない人は、最初からパッケージングされた学校教育を購入するのはやめて、全部自分でやれば解決すると思います。車だって、Sとか、Lとか、Gとか、Xとか、数パターンのパッケージがあるだけじゃないですか。服だって、XS、S、M、L、XLが多いでしょう。

 ちょっと派生して「受験科目としての要/不要」は、ちょっと本筋と離れるので割愛します。受験科目に何が選ばれるかは、純粋な学問としての要/不要というよりは、(ここではあえて「残念ながら」と書きますが)残念ながら各大学の経営上の利害関係が絡んでくるからです。

 例えば、経済学なんて本来数学が必須の内容ですが、「経済学部」と名がついているのに数学の能力を試験で測らない大学なんて山ほどあります。ちなみに、某大手予備校なんかが作る難度ランキングの下の方に行けば行くほど、「要らなく」なります。経済学部、なのにです。

 そういう事情が挟まってくるので、これについてあれこれ言ってもしかたがありません。

4 私たちはテセウスの船の乗員である、ということについて。

 さて、最後です。もっともっと根源的に、社会にとって古典の要/不要を論じるスタンスについて。私は絶対的に「要」の立場を取ります。
(だから現時点では、学校教育においてもある程度は「要」の立場です。ただ、全員である必要はあまり感じていません。それよりも時間を割くべきことがあると考えています。しかし、これは今回の本題では無いので省きます)

 ところで、「テセウスの船」という言葉をご存じでしょうか。
 何年か前に、テレビドラマのタイトルにもなっていたかと思います。(原作は漫画ですね)

 これは、古代ギリシャにおいてプルタルコスという人物が唱えた命題、問題に由来する有名なパラドクスの一つです。

 かいつまんで説明すると、「とある船があり、その船の古くなった部品を次々と取り替え続け、全ての部品が取り替えられた時、その船はもとの船と同じ船か」というものです。(ついでに、「取り替える前の古いパーツを全て保存しておき、そのあと全て組み立ててもう一隻組み立てた時、どちらが『元の船』か」という問題も発生します)

 私たちが生きる社会も、もちろん一種の「テセウスの船」です。

 例えばいま、2022年2月22日を生きている人間は、特筆すべき医療のイノベーションが起きない限り、例えば2152年2月22日には誰一人として残っていません。全員死んでいます。
 たとえば、2000年前の日本人も、1600年前の日本人も、1000年前の日本人も、420年前の日本人も、全員いません。それでも、私たちは、ずっとひとつづきの歴史をもった、「日本」という国家、社会、文化の枠組みの中に生きていると思っています。もちろん、和服を着る人は少ないし、恋文に和歌を詠む人も少ないし、みっともない死に方をするくらいなら自害しようとする人も少ないでしょう。でも、ずっとここは「日本」であり続けていると私たちの大半は思っています。

 なぜか。
 その社会(ここでは日本という国家ですが)を構成する成員が全員死んでも、何か別のものによってその文化や社会の連続性が担保されていると私たちは思っているからです。

 もちろん、その社会の連続性を担保する要素は複数存在するとは思いますが、そのうちの一つが古典だろうと思います。
 ちなみに、とある辞書を引くと、「アイデンティティー」という語義の説明の中に、このような項目があります。

アイデンティティー
①連続性のある同一のものであるという認識 自己同一性
イ さまざまな経緯を経ても、歴史的に見て連続性のある同一のものであるという認識。
③自分が自分であることの根拠 帰属意識
自分が何者かを証明するために、社会的な何か(国・学校など)と自分とを重ね合わせて、同一視する感覚。また、その社会に帰属しているという意識。

ベネッセ表現読解国語辞典

 つまり、「私」の意識、自我を形作る背景、根拠の一つとして日本という国家とその文化をイメージしたときに、その文化が遠い過去からずっと連続性を持っているものであると認識できて初めて、「私」の意識や自我もその長い連続性のある一点として存在していることを自覚できる、ということになろうかと思います。背景がぶつぶつ途切れていたら、「私」の今立っている場所もぶつぶつと切れた断片の上です。当然ですが。

 だから、私たちが私たちは何者か、どのような存在か、を考えるときに、古典の存在がその助けになるだろう、ということです。

 別に、それを全ての人が原典で読める必要があるとは、私も思いません。ほとんどの人は、今自分達が使っている言語に翻訳してもらったものを享受するので十分だと思います。ただ、言い換えれば常に翻訳できる人を確保しておく必要はあります。そうしないと、いつか、誰も読めない日が来るからです。そして、誰も読めなくなったものは、ほとんどの場合は二度と読まれません。失われて終わりです。

 数年前、南米に栄えたインカ帝国の統計情報用のキープ(紐の結び目を利用した帳簿。インカ帝国は文字を持ちませんでした)の解読に、ハーバード大学のチームが成功にてニュースになったのですが、ニュースになったのはそれが珍しいことだからです。基本的には、読めなくなったものは永遠に読めないままです。

 従って、個人個人の単位でみれば不要と思われても仕方がないし、そう思う人がいてもおかしくは無いが、社会全体で見れば技術として保存し続ける必要はあるだろう、と私は考えます。

 というわけで、今夜は、この辺で。

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