【時事雑感】プロゲーマーの「人権無い」発言に、一応言葉の仕事をしている人間として思うこと。

投稿日:

 まあ、知っている人は多そうですけど、一応リンクはこんな感じです。

https://www.j-cast.com/2022/02/16431135.html?p=all

 適当にあらましだけ書くと、
・プロゲーマーが、生配信の中で、「(身長が一定の高さ以下の異性には)人権ない」と発言。
・これが問題視されて、そして謝罪文面が「軽い」表現のチョイスだったため批判が止まらず。
・所属していたチームから契約終了される。

という経緯だそうですね。

 私自身、格ゲー全くわからないし、やらない(反射神経が鈍いからああいう細かなボタン操作を瞬時に求められるゲームはテンパってミスるから下手)し、従ってこの方のことも存じ上げないので、この方について、ではなく、言葉遣いのことについて思ったことを少々。

目次

1 ゲーム界隈のスラングってやっぱりきついらしい。
2 この人個人の問題ではないと思う。
3 閉鎖的になれない時代に、閉鎖的な社会を抱えて生きるということ。

1 ゲーム界隈のスラングってやっぱりきついらしい。

 「人権」という言葉が、ゲームの世界においては「これを使わないと勝てない、乃至はこれを使うことで著しく有利になるキャラクタ」を指すということは知っています。

 マルチプレイをすることがまーないので(だってミスしたらボロクソ言われそうだし)、多分私自身は「人権キャラ」って言い方自体をしたことは無いような気がします。でも、例えばモンストなんかをやっていると、ガチャから数%の確率でしか引けない特定のキャラを持っていないとクリアが困難、みたいな場合も多々ありますが、そもそも持っていなければそのステージに挑むことすらないですし、行けた場合も、どちらかというと「所持品検査」という言い方を個人的にはすることの方が多いは多いです。

 ですが、やっぱりこの「所持品検査」も、言葉としては結構トゲあるよな、とは思います。
あと、カードゲームを好んで遊びますが、やっぱりその中にもスラングがあって。

 たとえば、相手プレイヤーや相手の場札に攻撃するときなんかは、「殴る」という言葉を使う人は多いですし、その攻撃力を「殴り」と表現するのはカードゲームを遊ぶ人の中では比較的通じる人が多そうだと思いますし、相手のプレイヤー本体のことは「顔面」と呼ぶことも多いように思います。

 ですから、例えば「相手の場札を無視して相手プレイヤーを直接攻撃した方が今の状況だと有効のように思われる」という場合は、「顔面殴るのが丸い」みたいな言い方になるわけです。

 他にもゲームを遊ぶ人の中で広く使われるであろうスラングなんてあげればキリがないですが、総じて「きつい」という印象を持たれても仕方がないかな、と思わないでもないですし、全くゲームをしない妻とこの件が話題になった時も、やっぱりきつい言葉が多く感じる、とのことでした。
 もちろん、言葉のきついきつくないは基本的には個人の感性によるところが大きいですけれど、きつい、品がない、と多くの人に思われていたとしても、致し方ないことのように思います。

2 この人個人の問題ではないと思う。

 である以上、今回の件はこの人個人の問題ではないようにも思います。
そもそも、スラングというのはどのような集団の中にも存在します。例えばあだ名なんかも一種のスラングになります。スラング、というのが「特定の社会のみで用いる言葉」ですから、誰かのあだ名もその集団の中でしか用いず、通用しないという点ではスラングの一種です。

 こういう「自分達だけにしか通じない言葉」によって、その社会の成員は互いが同じ社会に属するもの同士であることを確認し合いますから、そういった言語があることは個人同士を社会の成員として繋げる上では大きな役割があります。
それは事実だと思いますし、したがってスラングが存在すること自体を悪だと思うわけでもありません。

 ただ、問題はそれが外に出る場合です。
そのスラングが、それがスラングとして機能しない場に出た場合、当たり前の話ですがそれはスラングではない側の解釈を用いて理解されるわけですから。

 と考えるならば、そもそもそう言ったスラングを外に出さないようにする、という配慮や想像力が全ての人に必要なわけですが、とは言えこういう時代、自分達のスラングが外に出ないようにする、ということ自体が困難なわけですから、そもそも外部に聞かれてまずい言葉をそういうものに選ぶな、と注意していった方が健全なようにも思います。

 また、ビデオゲームなどはEスポーツと銘打って競技化、大衆娯楽化を目指す流れが今の所強く、賞金の大きな大会を開催したり、プロプレイヤーが多く生まれたりと、単なる「若者の消費的遊び」の枠を出ようとしているようです。

 つまりそもそもゲームの業界の一部自体が、ゲームをする人のコミュニティの外側に拡大しようとしているわけですから、そもそも従来の閉鎖的なコミュニティの中で使われていたスラングが、そのコミュニティの外部の目に触れるようになることは必至なわけです。
だったら、なおのことそもそももうそういうキツめの言葉を使うこと自体をやめた方がいいんじゃないの、と思います。

 将棋の中継で、どんどん駒の交換をしながら相手の玉を詰める場面で、「次々と焼きながら顔面つめていきますねー」とか言ったら、やっぱりしっくりこない人が多いのではないでしょうか。でも、「Eスポーツ」化を目指すゲームの中では、この言い方って別に珍しくもなんともないわけです。

3 閉鎖的になれない時代に、閉鎖的な社会を抱えて生きるということ。

 もっというならば、それこそ「SNSでまずいことやって炎上する人」も「学校の体罰」も「職場のセクハラやパワハラ」なんかも、おそらく構造的には似た部分があって、それまではさまざまなコミュニティが閉じた場だったために、それが普通だと思っていたり、あるいは、苦痛だけど、どこもそういうもんだろうから仕方がない、と泣き寝入りしていたことが、閉じた場の内側が外部から見えるようになったことによって、「いやいや、やっぱり違うじゃん、ダメなんじゃん」と言えるようになった、ということなんだろうと思います。

 でも、だからと言って、私たちが一切の閉じた場を放棄して生きていけるかというと、決してそうでもないわけです。おそらく、これまで数千年と人間はさまざまなサイズの閉じた場を生み出して、そこに所属している実感を得ることを重視して生きてきたわけですから、その習性をそう易々と捨て去ることはできないように思います。

 しかしながら、閉じ切ることは不可能です。閉じた場ではありつつも、でも常に開かれている。そういう一種ダブルスタンダードとも言える環境しか、今の社会では作り出せないようにも思います。
仮にほぼ密閉されていたとしても、何かの弾みで外から覗ける隙間が開けば、その反動はとても大きいものにもなるわけです。(学校での出来事だけを例に取るなら、例えば大阪の桜宮高校の件とか、神戸の教員いじめのこととか、他にもたくさん)

 閉じているけど、開いている。
そういう位置に自分が立っていることを自覚して、バランスの取れる人間になりたいなーと、つくづく思います。

 書いてから思ったけど、すっごい当たり前のことしか書いてないな。
 ま、いいか。
 では、今日はこの辺で。

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