前回の続きです。
目次
1 一般化するにあたって
2 メリット
3 デメリット1 「個別最適化」に怒涛の勢いで逆行する。
(↓今夜はここから)
デメリット2 「わからない」が生徒の責任になりうる。
4 問題点 教師の授業評価≠教師の評価にはなりえない、ということを無視している。
3 デメリット2 「わからない」が生徒の責任になりうる。
さて、前回のデメリット1でも挙げた、「個別最適化」がこれにおいてもキーワードとなってきます。
大前提として、「『子ども』という子どもは存在せず、『生徒』という生徒も存在せず、『教師』という教師も存在しない」という、それはもう揺るがしようのない純然たる事実が存在する、ことを念頭に置きたいと思います。
つまり、今回の文脈に合わせて言い換えるならば、すべての生徒が、同じ授業に対して一律の理解を示すわけではないし、すべての教師が、すべての場面で一律の授業をすることはできない、ということです。
この話題で問題にしたいのは前者です。
もちろん、こういう仕事をする以上、自分の授業を楽しい、面白い、勉強になる、と思ってもらえたらいいな、という向上心のようなものは、おそらく概ねの教員が持ち合わせているとは思います。
ただ、当たり前の話ですが、授業には生徒にとっての「あう、あわない」が必然的に発生します。たとえば学習の進め方、課題設定のルートととりかた、説明の仕方、多種多様です。
なので、例えば二人の教師A,Bがいるときに、Aの方がいい、と思う生徒と、Bの方がいいと思う生徒と、当然どちらも存在します(まあ、あんまりにも実力差があると、片方に偏ることはありますが)。
例えば、授業評価90点の教師Aの授業をうけて、その生徒が90点をとり、授業評価80点の教師Bの授業をうけて、同じ生徒が80点をとり、その生徒の実感としての「わかりやすさ」も教師A>教師Bなら、話は簡単なわけです。
教師Aの方が、教師Bより、その生徒にわかりやすいという実感を与え、そして現実に高学力を提供できる、と言えなくもないでしょう(あくまで、言えなくもない、だけである点には注意が必要です)
では、逆の結果が出た場合は。教師Bの方がより点を取ることができ、教師Bの方をわかりやすい(相対的に、教師Aの方がわかりにくいと感じた)場合は。
ただ、前回も書いた通り、あくまで「数値化して点数をつける」というのは「一般化された評価」です。つまり、「客観的に」教師Aの方がよい授業を提供しているわけだから、それをわかりにくいと感じるその生徒側の理解力や理解の特性側に、わかりにくいと感じる原因がある、というロジックを、押し付けることも可能です。
さてさて。果たして本当にそれでいいのか、という話です。
実際に、そんなロジックを持ち出して、生徒の理解特性を低い、と断じるようなことは、実際には学校現場では起きえないと思います。そもそも授業を一般化して評価することが不毛であることを知っているのは我々ですから、そもそも前提が間違っているからです。
ただ、それを知らない人からすれば? それを知らない行政からすれば? とは、どうしても疑ってしまいますね。
(そしてこの評価に対する考え方は、そのまま立場を逆転させて、偏差値や点数主義に陥りがちな学習評価に対する批判にもなっています)
4 問題点 教師の授業評価≠教師の評価にはなりえない、ということを無視している。
続いての問題は「すべての教師が、すべての場面で一律の授業をすることはできない」という点です。
例えば、万が一100点の教員がいたとして、その教員の授業を台本化し、板書案や視覚資料も含めてそっくりそのままトレースすることができるかというと、決して、そうではないわけです。
それこそ、まずはちゃんと座らせるところから始めなければならない集団もあるし、最初から座っている集団もある。座らせるところから始めていたけど、最近ちゃんと座って始められるようになれば、それに対するコメントは必須です。
授業中に生徒からどんなコメントが飛んでくるかもわからないし、どんな質問が出てくるかもわからない。
私たちは、徹底的なアドリブの中で授業を組み立てていく能力が求められています。だから、評価されたその集団におけるその人の授業には、(良い意味で、だと思います)実は全く再現性が無い。
(根本的に、実はここに大きな矛盾があって、数値化されて一般化された評価にもかかわらず、実は全く再現性が無いんです。たとえば学力試験であれば、基本的には同じ答えを返せば同じ評価が返ってきます。これを、再現性と呼んだりします。でも、授業には基本的には再現性がありません。そもそもの「同じ授業をすれば」という前提が成り立たないわけです)
そして、その再現性のなさの根本的な理由は、教員以外にある場合も多々あります。生徒の状況、地域柄として出てくる集団の傾向、学年、担任の指導方針、個々の生徒の影響力などなど。
これらは、授業者がコントロールできるものではありません。(コントロールできるともしも考えているなら恐ろしい。相手も一人の人間ですから)
でも、授業の成立の可否は、そこに大きな影響を受けます。
同じ授業をしても、受ける集団の状況次第で、その授業をよかったともよくなかったとも思うわけです。それは、授業者には根本的にコントロール不可能な要因が含まれる場合も多い。
それが人事評価に直結する、というのは、いささかやり方として危ういのではないかと、私は思います。あくまで、私は、ですけど。
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最後に、実際に大阪がどのようなやり方で数値評価をするのかは知りません。ですから、実際に蓋を開ければ、実に理にかなった方法である可能性も、幸いほんのわずかながら存在すると思います(今書いたような理由に依って、だから教員を評価するな、と主張するのは横暴ですし、怠慢ですから)。
そもそも、生徒がその場で「わかりやすい」と感じた授業が、本当にいい授業だったのか、という点からして議論の必要はあるでしょうし、あげれば問題点なんて山ほど出てきますが、まあ、今夜はそこまでは書きません。
とはいえ、過去の大阪というと、桜宮高校の教員を「全員」転勤させると首長が息まいたり(すべての先生と初めましてになる、他大勢のことは想像できなかったんでしょうね)、いじめを隠したら減給と大々的に言い出したり(本当にいじめを減らしたいなら、いつでも現場の相談に乗ってサポートに人員を派遣してくれる部門とかを作ったほうが多分効果的ですよね)、やや行政の考えることが危なっかしいので、まあ、あとはじっくりとその具体的実際を見ていきたいと思います。
(と、ともすれば上から目線と見えるかもしれない当事者感丸出しの言い方をしたのは、これをモデルケースとしてほかの自治体も同じことをし出す可能性があるからです。再来年度は、私の番かもしれませんから。自治体は違いますが、決して他人事ではないわけです)
というわけで、今夜はこの辺で。