https://www.asahi.com/articles/ASQ295TJYQ29PTIL01S.html
今夜は、こちらのニュースから。
こんばんは、しめじです。
このニュースについて、私は朝日新聞デジタルが報じている以外のものを見ていません。
したがって、大阪府が具体的に、実際的に、どのような施策として若手教員の授業を数値評価する計画でいるのかもわかりません。
ですから、今夜は、大阪府がやろうとしていること、ではなく、「教師の授業を数値評価すること」という、一般化したものごとを対象に、ちょっと思うことを書いていきたいと思います。
目次
1 一般化するにあたって
2 メリット
3 デメリット1 「個別最適化」に怒涛の勢いで逆行する。
(今夜はここまで)
デメリット2 「わからない」が生徒の責任になりうる。
4 問題点 教師の授業評価≠教師の評価にはなりえない、ということを無視している。
1 一般化するにあたって
さて、一般化する以上は、条件を設定する必要がありますね。
今回は、ざっと、
・教師が授業を行う。
・元校長などの教職経験者の評価と、授業を受けた生徒のアンケートをもとに、その教員の授業の評価を行う。
・その授業の評価をした点数、数値評価をもとに、教員の昇給率などをコントロールする(=教員の事実上の人事評価とする)
という感じで行きます。
2 メリット
これはもう、とにかく、説明責任(アカウンタビリティ)を果たしやすいのは間違いないと思います。
たとえば、今オリンピックをやっていますね。
冬のオリンピックは、フィギュアスケートやジャンプ、モーグル、スノーボードハーフパイプなど、夏のオリンピックと比べても、相対的に「採点要素」のある競技の多い印象があります。
もちろん、何度もオリンピックをやっていると、その採点者の採点に、世間が疑義を示すことはあるわけですが、実際のところ、各技術点などは細かく上限が決められていて、着眼点などもしっかりと定めてすり合わせを行ってから競技審査に臨むそうです。
競技審査の、ひいては競技の公正性を担保するために当然必要だからそうしているわけですが、なぜそれで公正性を担保できるかというと、端的にいえば、客観的に他人に説明しやすくすればするほど、基本的には公正なものである、と我々は信じているからです。
こういう、評価する側、判断する側が、その評価や判断の正しさを、客観的に説明できる状態でものごとを進めていく責任を負う、という責任の考え方を、私たちはしばしば説明責任(アカウンタビリティ)と呼びます。
学校教育に話を戻すと、そもそも教育がその子どもの全人生に影響を及ぼすものである以上、成長過程のその一瞬一瞬を切り取って、行われた教育を評価することは本質的には不可能なわけですが、不可能だから評価しない、と評価を投げ出してしまうと、それはそれでなんでもありになってしまいます。
したがって、教育にも評価は必要になります。
そして、評価をする以上は、当然のことながらそこには説明責任が生じるわけです。
対世間(生徒、保護者、その他外部の全員)に対しては、それは一種のグレーディング(序列付け)として効果を発揮しますし、教員本人に対しては、それはアセスメントやフィードバックとして機能することになるはずです。
そうすることによって、学校教育はちゃんと真剣にやっていますよ、という姿勢をちゃんと外部に示すことができるし(こういう責任の負い方は、レスポンシビリティといいます)、教師も、自分の授業の力が今どのような位置にあるのか、どのように思われているのかを知ることができます。
その点についてのみ、メリットになりえると考えられます。
が、実際のところはそれ以前の次元で多数の問題とデメリットを抱えます。
3 デメリット1 「個別最適化」に怒涛の勢いで逆行する。
ちょっと先ほどの話から視座が変わりますが、ここからは、デメリットについてお話したいと思います。
一つ、まず私が最も懸念することは、「個別最適化」を追求する今日の学校教育に、全力で逆行する営為となるのではないか、という点です。
まず、数値評価、点数化、という行いの本質は、その対象を一般化する、ということにある、ということを忘れては行けません。
例えば、数学のテストをしたとします。
Aさんは80点でした。Bさんは20点でした。
しかし、Aさんが苦手でほとんど間違えた分野の問題を、Bさんはすべて正解しました。
例えば、英語のテストをしたとします。
Aさん、Bさん、ともに50点でした。
Aさんは、英作文をすべて正解し、日本語訳をすべて間違えました。
Bさんは、日本語訳をすべて正解し、英作文をすべて間違えました。
例えば、二人点数合計を比べます。ちなみにテストは各100点満点とします。
Aさんは、合計130点、Bさんは、合計70点です。
結果として、Aさんのほうがはるかによくできることがわかります。
本当ですか?
かなり極端な例を作りましたが、例えば受験や今日の学校評価における成績付けは、このように行われています。各自、できることは全く違うのに、同じ数直線上に配置して評価します。
こういう、数値評価は、基本的には「一般化されたもの」、つまり、いつ、どこの、誰にとっても、同じ意味を持つものとして受け止められるものとして機能します。例えば80点の生徒と60点の生徒がいれば、それはどの教員が見ても80点の生徒のほうが点数が高く、その点数ではかられた部分についてのみ、80点のほうが優れていることを意味します。教師によっては、「いや、こっちの60点の子のほうが優れているでしょ」などととらえることは、原則としてあり得ないわけです。
では、教師の授業を数値評価するということはどういうことなのか。
例えば、数値評価の結果70点の授業の教員がいたとすれば、それはどの生徒にとっても70点の授業する教員であることを意味することになります(もちろん、生徒は各自自由にいろいろなことを思いますけどね。それは我々が生徒に数値化できない長所や短所を見出すのと同じです)。上の話の生徒と教員を入れ替えたんですから、そりゃそうです。
さて、今の学校教育って、そういう方向性に進んでいますか?
ずっと前から、「個別最適化」を目指して学校教育はやってきました。もちろん、授業が基本的には1対多で行われる以上、完璧なものにはできませんが、その範囲内で試行錯誤していますし、文科省もあれこれその方向に進むように動いています。学習指導要領の改訂も、来年から高校にも導入され、これで小中高とそろうことになる観点別評価も、すべて根底にあるのはそういった多様性への対応です。
「一般化された授業評価」って、この方向性と結構矛盾します。
行政が、その矛盾を盛大に実行に移すのって、どうなんでしょうね。
さて、長くなりますので、後半はまた次回。
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