こんばんは、しめじです。
目次
「オトナコクゴ」で本当にやってみたいこと。
たまに頭につけている「オトコク」。
一応、意味は「大人の国語」。
高校の国語なんかで習ったことって、大抵の場合は忘れてしまうもの。
なぜなら、趣味じゃない限り古文なんて読まないし、趣味じゃない限り文学なんて読まないし、多少てにをはぐちゃぐちゃでも、多少言葉の意味が間違っていても通じるし、漢字はパソコンやスマホが変換してくれるから。
でも、大人になって、学生の頃よりもさらに多くの言語体験を重ねてきたからこそ、「今あらためて聞いたら面白いこと」って、きっとあるはず。
高校生の時は、意味がわからないまま通り過ぎていった物事も、後になって「こういう意味だったのかあ」と唐突に腑に落ちるようなことが、きっとあるはず。
誰に、何が響くかなんてわからないけれど、どれか一つが、「大人」の誰かに響いたらいいなあ、などという、あてのない祈りのようなものです。
というわけで、今夜は、古典の授業で習ったはずだけど、忘れてしまった人が多いから意味が誤解されがちな言葉を一つ、紹介しようと思います。
(尤も、何かしら能動的な手段でこんなブログに辿り着くような方は、とうの昔にとっくに理解している事柄かもしれませんが)
「情けは人のためならず」、じゃあ、誰のため?
「情けは人のためならず」ということわざ。
「本来の意味から誤解されている言葉ランキング」を作ったら上位にくる言葉である、ということは、ご存知の方も多いと思います。
そこから繋がって、本当の意味は「人にかけた情けは、回り回って自分に返ってくる」というものだ、ということも、ご存知の方が多いと思います。
ところで、「なぜそういう意味になるのか」ということについては、ちゃんとご存知でしょうか。
今夜は、なぜ「情けは人のためならず」が、「人にかけた情けは、回り回って自分に返ってくる」という意味になるのか、お話ししてみようと思います。
ポイントは、断定の助動詞「なり」
このことわざの最大の誤解ポイントは、間違いなく「ならず」の解釈です。
動詞「成る」未然形と、打消の助動詞「ず」終止形の組み合わせだと判断されがちです。
そのように解釈すると、「情けは人のためにならない」わけです。これが、よくある誤解の正体。
でも、この「なら」は、動詞「成る」の未然形ではありません。
断定の助動詞「なり」の未然形です。
断定の助動詞「なり」は、今の日本語でいうと「〜だ、〜である」。
したがって、「〜ならず」は「〜ではない」というような意味になります。
ということは、「情けは人のためならず」は、「情けは人のためではない」ということです。
では、誰のためなのか? 自分のためなんだよ、というわけです。
だから、「情けは人のためにかけるものではなく、回り回ってその情けが自分に返ってくるんだよ、だから、未来の自分のために、他人に情けをかけなさい」という意味になるんですね。
では、今夜はこの辺で。