評論文の覚書1.5(脱線)

①はこちらです。

 こんばんは、しめじです。

 今夜は、昨夜の続き、評論文の読み方について話をします。

 とはいえ、あくまでこの文章の意図としては、「漠然と」読んで、「わからない」というのは止めにしよう、というものですので、基本的には前から順番に読んでいくことは変わりません

 また、部分部分をすっ飛ばしながら、つまみ読みをしていって、点数だけとろう、という話もしていません。
 理由はいたってシンプルで、それが出来たからと言って「文章が読めるようになった」とは言えないからです。

 お話ししたいのは、文章の内容の全体像をつかむために、どんなことを意識すればいいのか、ということです。

 では、昨日の続きから。

目次

  1. 続・テーマはどこに書いてある? 
  2. 〇問題提起以外のよくあるパターン
  3. 〇なかなかテーマが登場しないパターン
  4. 〇実は評論文のふりして評論文じゃないパターン。

続・テーマはどこに書いてある? 

〇問題提起以外のよくあるパターン

 昨日は、とりあえず前半、問題提起がなされているところ、という話をしました。

 ただ、割と多くの文章がそうなっている、という程度の話であって、あんまりきちんと定型化されているとは言えません。
 教科書の文章をさらーっとあれこれ読んでみると、他にもさまざまな構造がありますので、ざっくり紹介しておきます。

 まずは、問題提起もなしに

<主題>は<評価>だ

という形で、分かりやすく書いてくれているパターンです。

 簡単に、テーマも「評」も見つかります。あとは「論」を追うだけで済みます。
 ただ、一見すると単なる主語と述語なので、わりと見落としやすい。

 なので、それが「評」であるのは、どういう時が多いか、というのも、合わせてお話しておきます。

 よくあるのは、際立って抽象的な語や、比喩が使われていたり、「 」でくくられているパターンです。

 抽象的な語であれば、それはどういうことを具体的に言っているのかが「論」として説明されることが多いです。
 また、抽象的な語は、「すぐには真意が見えない」語でもあるので、読者に「どういう意味だろう?」と考えさせ、興味を引くことができます。
 「  」でくくるのも同様。「 」でくくられる一般名詞は、その文章の中での、筆者なりの特別な意味が込められているので、多くの場合はその意図するところが「論」として語られます。

 比喩は、文の中で局所的に使うことで、その箇所を強調するテクニックです。
(局所的に使うから意味があります。連発したらくどいくどい。試しに日記をできるだけ比喩を使って書いてみてください。村上春樹も逃げ出すレベルのくどい文章になります)

 例えば、読み始めた文の前半で、

本を読む、という行為は、自分の中の他者と出会うという行為だ。

 とあったら、これ、クサいですよね。

 多分、前後の文が無くても、文を読み慣れている人なら、「多分これは重要な一節だな」と感じるレベルにクサくしてみました。

 「自分の中の他者と出会う」。抽象的ですよね。そして、はて、どういうことだろう? ということが、論の中で語られます。
 と考えれば、少なくとも、まずはこの評論のテーマは「本を読むという行為」であって、これについて筆者が何かしらの主張をするのだろう、と考えることができます。

 もちろん、このあと、実はメインテーマは「自分の中の他者と出会う=自分が認知していない自分を発見すること」だった、となるかもしれませんが、それは読んでいかないとわかりません。まずは、「読書について何か言っているようだぞ」と意識して読み進めて行く必要があります。

 読んでいく中で、「自分の中の他者と出会う」ことが人間にとって大切なことだと筆者が主張するならば、その文章の「テーマ」と「評」は、

本を読むという行為は、自分の中の他者と出会うという、人間にとって大切な行為だ。

という形になります。

 で、「論」は、なぜ人間は自分の中の他者と出会う必要があるのか、を説明したパートだ、と、ある程度まで関係性を単純化してとらえることができます。

 もちろん共通テストの現代文なんかになると、5000文字とかあるので、ここまで単純な図式に落とし込めないことも多いですが、だったらそれはそれで、漠然と読んだらますます訳分からなくなりますから、幾分はましでしょう。

〇なかなかテーマが登場しないパターン

 これもあります。前半とは言いましたが、ほとんど中ごろ、場合によっては後半のはじめのほうみたいなタイミングまで、何一つテーマらしいことが出てこないこともあります。

 どういう評論に多いかというと、

 人によって意見が分かれそう、とか、あまり人が考えていなさそうなことについて書く評論文に多いです。

 例えば、いきなり、

科学を、もっと面白いものにする方法はないだろうか。

 などと書きだされていたら、ちょっと面食らってしまうと思います。

 なぜなら、科学を面白いと感じている人なんて、世の中にはたくさんいますし、科学という言葉を見ただけで拒絶反応を起こす人もたくさんいて、そういう人たちは科学が面白くなる必要性なんて感じていない可能性があるからです。

 そのためには、「今の科学は面白くないということ」「科学を面白くしたほうが、個人、あるいは社会にとって良いことがあるということ」の二点について、先に読者のコンセンサスを取らないといけないからです。
(カッコつけて「コンセンサス」と言ってみましたが、要するに「了解」です。「~という前提で話を進めますよ、いいですよね?」ということです)

 そういう文章の場合は、科学の歴史だとか、今の科学を取り巻く環境だとか、先に色々説明しておいて、「ね? 今の科学って面白くなくなっちゃったでしょ? 科学が面白くなくなったせいで、いろいろ不都合が起きてるよね?」ということを訴えて、読者に「確かにそうだね」と思っておいて貰わないといけません。

 体験談とか、データとか、時事とか、そういった内容が延々と続く場合は、大抵このパターンです。
 後半に差し掛かったころ、あるいは最後の方かもしれませんが、満を持して筆者の主張が登場するので、そのつもりで読んでいけば混乱は少なくて済みます。

〇実は評論文のふりして評論文じゃないパターン。

 これはねー。

 あまり同業者的な人たちをこういう風に言うのはよくないと思うのですが、「評論文」にカテゴライズされた文章が評論文になっていないことってあるんです。

 最後まで「筆者の考え」が出てこないパターン。出てきたとしても、それが文章の中心に据えられていないもの。

 これらは、はっきり言って「評論文」じゃなくて「説明文」です。
 多くの読者が知らないだろう物事の側面を、明らかにする文章。
(もちろん、その逆もあって、一見すると評論文ではないように見えても、よく見ると評論文、ということもあります。2014年1月のセンター試験に出た小林秀雄の「刀の鍔」についての文章は、一見随筆っぽくて受験生を苦しめ、ついに国語の平均点を2桁にまで落としましたが、よく読めばシンプルな構造の評論でした)

 どっちが良くてどっちが悪いというものではありません。
 ただ、それを「評論文」のカテゴリに入れて出題しないで、ややこしいから、とは思います。

 ま、教師側の愚痴はこのくらいにして。

 これは、もう丁寧に話の展開を一つ一つ追っていくしかありません。

 そして、この手の文章に出てくる「問題提起」は、次に繰り広げたい説明に興味を持ってもらうために、食いついてもらうために使われている表現技術であって、「テーマ」を示すわけではないのでご注意を

 というわけで、「テーマ」について話していたらこの字数になりました。

 でも、本当はもっと書きたいことがあります。
 それくらい、評論は「テーマ」をいかに早く把握するか、が勝負です。
 「テーマ」を把握しないと、「評」がどれかもわからないですからね。
 少なくとも、それくらいの意識で読んで損はないよ、ということです。

 流石に明日はちょっと先に話を進めようと思います。

 では、今夜はこの辺で。

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