こんにちは、しめじです。
一回で書き切るつもりだったのに、いつのまにやら四回に分けてしまいました。
いつものことながら、本当に要点を簡潔に書くのが下手ですね。つい、あれもこれもと書いてしまいます。
今回は、これまでの話の続きです。
現代文はここからでもあげられるのか? ということについて、ちょっと目先を変えて考えてみたら十分伸びるのではないだろうか、という話をしていきます。
前回は、読む本文のレベルを下げてしまえば難度を下げられるわけですから、一文をできるだけ短く考えてみると読み易くなる、理解しやすくなるというお話でした。
今回は、書く時、答える時の話をしてみようと思います。
短く考えたら読み易いならば、短く考えたら書きやすいはず。
全体的に「短くして」考えれば読み取りやすい、理解しやすい、考えやすいはずだ、というのは昨日お話ししました。
これは、自分が問題を見て、考えて、書く時にも言えるのではないかと思うのです。
ちょっとした例を出してみようと思います。
例えば平成31年度センター試験の評論文を見てみましょう。
平成30年度大学入試センター試験 本試験の問題です。www.dnc.ac.jp
このページにある、国語の問題をご覧ください。
本文に引かれた傍線は三つ。そして、いずれもやや長めです。
そのうちの、問3を見てみたいと思います。
問 傍線部B「翻訳というよりは、これはむしろ翻訳を回避する技術なのかも知れない」とあるが、筆者がそのように考える理由として最も適当なものを選べ。
実際は記号選択式の問題ですが、初めから消去法で取り組むのは時間の無駄なので、大体どういう内容が答えになるのかを考えておきましょう。
では、どうするか。そこでもう―つの戦略になるわけだが、これは近似的な「言い換え」である。つまり、同じような状況もとで、日本人ならどう言うのがいちばん自然か、考えるということだ。ここで肝心なのは「自然」ということである。翻訳といえども、日本語である以上は、日本語として自然なものでなければならない。いかにも翻訳調の「生硬」な日本語は、最近では評価されない。むしろ、いかに「こなれた」訳文にするかが、翻訳家の腕の見せ所になる。というわけで、イギリス人が「よい朝」と言うところは、日本人なら当然「おはよう」となるし、恋する男が女に向かって熱烈に浴びせる「私はあなたを愛する」という言葉は、例えば、「あのう、花子さん、月がきれいですね」に化けたりする。
僕は最近の10代の男女の実際の言葉づかいをよく知らないのだが、英語のI love you.に直接対応するような表現は本語ではまだ定着していないのではないだろうか。そういうことは、あまりはっきりと言わないのがやはり日本語的なのであって、本当は言わないことをそれらしく言い換えなければならないのだから、翻訳家はつらい。ともかく、そのように言い換えが上手に行われている訳を世間は「こなれている」として高く評価するのだが、厳密に言ってこれは本当に翻訳なのだろうか。翻訳というよりは、これはむしろ翻訳を回避する技術なのかも知れないのだが、まあ、あまり固いことは言わないでおこう。
というのが該当しそうな本文です。
まず、傍線部を分解します。
「翻訳というよりは」
「これは」
「むしろ翻訳を回避する技術」
「かも知れない」
くらいに四分割してみましょう。
一つ目の「翻訳というよりは」と三つ目の「むしろ翻訳を回避する技術」はワンセットですね。
また、「AはBよりもむしろCだ」という書き方は、「AはCだ」が軸になると考えればOKなので、言いたいこととしては「翻訳を回避している」がメインだと考えます。
あと、最後の「かもしれない」は筆者の個人的感想を示す働きがあるにすぎないので、そんなに深く考える必要もないでしょう。
「~の場合がある」とか「~の可能性がある」くらいの言い換えで済ませてしまおうと思います。
となると、考えるべきは二点です。
「これ」の指示内容。
「翻訳を回避する」の意味。
これだけ。
では、まず、「これ」の指示内容を確認します。
そのように言い換えが上手に行われている訳を世間は「こなれている」として高く評価するのだが、厳密に言ってこれは本当に翻訳なのだろうか。
傍線部直前の文がこちら。
ここにも、「これは本当に翻訳なのだろうか」とありますから、傍線部Bの「これ」と、この「これ」は同一だと考えます。
なのでさらに前を見て、
「言い換えが上手に行われている訳を世間は「こなれている」として高く評価する」の部分が「これ」の示す内容だと判断します。
また、「これは翻訳なのだろうか?」とあるわけですから、「これ」は「評価」ではなく「翻訳」のこと。
それに合うようにちょっと語順を並び替えて、
「これ」=「世間がこなれているとして高く評価する、言い換えが上手に行われている訳」
としておきましょう。
(何を何に言い換えているのか、など、突き詰めれば他にも説明すべき要素はありますが、ちょっと置いといて先に進みます)
続いて、「翻訳を回避する」という言い回し。
「回避」ですから、避けているわけです。
つまり、翻訳していない。
もしくは、翻訳しているように見せかけて、実は翻訳していない。
という類の意味だろうというのは、語からまず判断できてしまいます。
では、「実は翻訳していない」とはどういうことか、これを本文から探ります。
この本文で取り上げられているのは、
・同じような状況もとで、日本人ならどう言うのがいちばん自然か
・英語のI love you.に直接対応するような表現は本語ではまだ定着していないのではないだろうか。
・本当は言わないことをそれらしく言い換えなければならない
という内容とその具体例です。
ということは、「実際に書かれた言葉を訳しているのではなく、日本人らしく、それらしく言い換える」ということが、「翻訳を回避する」の意味だろうとイメージできます。
あとは、両者をつなげます。
世間がこなれているとして高く評価する、言い換えが上手に行われている訳は、実際に書かれた言葉を訳しているのではなく、日本人らしく、それらしく言い換えているだけである。
あとは、「かも知れない」という内容と、「理由を説明せよ」という設問指示に従って、「に過ぎない可能性があるから。」などを足して、
世間がこなれているとして高く評価する、言い換えが上手に行われている訳は、実際に書かれた言葉を訳しているのではなく、日本人らしく、それらしく言い換えているだけに過ぎない可能性があるから。
とすれば、記述の答案としても大体の点数はもらえるでしょう。(満点かどうかはちょっとわかりませんが)
少なくとも、選択式問題でここまで解答のアウトラインがつくれれば、多分正解を選べるはず。
では、選択肢を見てみましょう。
①慣用句のような翻訳しにくい表現に対しては、日本語のあいまいさを利用して意味をはっきり確定せずに訳すのが望ましい。だが、それでは原文の意味が伝わらないこともありえ、言葉の厳密な意味を伝達するという翻訳本来の役割から離れてしまうから。
②慣用句のような翻訳しにくい表現でも、近似的に言い換えることによってこなれた翻訳が可能になる。だが、それは日本語としての自然さを重視するあまり、よりふさわしい訳文を探し求めることの困難に向き合わずに済ませることになるから。
③慣用句のような翻訳しにくい表現でも、直訳に注を付す方法や言い換えによって翻訳が可能になる。だが、それでは生硬な表現か近似的な言い方となってしまうため、文化の違いにかかわらず忠実に原文を再現するという翻訳の理想から離れたものになるから。
④慣用句のような翻訳しにくい表現に対して、不自然な表現だとしてもそのまま直訳的に翻訳しておくことで、それが翻訳不可能であることを伝える効果を生む。だが、一方でそのやり方は日本語として自然な翻訳を追求する努力から逃げることになるから。
⑤慣用句のような翻訳しにくい表現でも、文学作品の名訳や先輩翻訳者の成功例などを参考にすることで、こなれた翻訳が可能になることもある。だが、それでは適切な言い換え表現を自ら探求するという翻訳家の責務をまぬがれることになるから。
選択肢はどれも、「慣用句のような翻訳しにくい表現」から始まっているので、この辺は無視でOK。その続きに注目しましょう。
まず、「世間がこなれているとして高く評価する、言い換えが上手に行われている訳」に注目すると、
言い換えることでこなれた翻訳が可能になる
となっている2が一番よさそうです。
3は、「直訳に注を付す方法や」が邪魔ですし、4は「不自然な表現だとしてもそのまま直訳的に翻訳しておくこと」とあるので「こなれた言い換え」ではありません。1と5は全く関係ない別のことが書いてあります。
というわけで、この時点で2なんだろうな、という感じなんですが(ここまであっさり一個に絞れることはまあ稀です。実際は、この時点で2択か3択になるくらいのつもりでいたほうがいいと思います)。
一応後半も読んで確かめましょう。2だけ読みます。
それは日本語としての自然さを重視するあまり、よりふさわしい訳文を探し求めることの困難に向き合わずに済ませることになるから。
本文に「日本人ならどういうのが一番自然か」というくだりがありますし、あくまで「近似的」な言い換えだとも書いてありますので、「日本語としての自然さを重視するあまり、よりふさわしい訳文を探さない」と合致します。
また、試しに作ってみた解答の「日本人らしく、それらしく言い換えている」とも合致します。
さらに、「困難に向き合わずにすませる」は「回避」の語義ですので、やっぱりトータルで考えて2でよさそうです。
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という感じで、長い本文や長い傍線部、長い選択肢であっても、ある程度分割してしまえば考えるのが少し簡単になります。
前回も書きましたが、とにかく長いものを長いまま考えるのは大変です。労力が大きすぎます。
とりあえず、短くしてみる。
短くすれば、抽象的な表現も具体的にイメージしやすくなりますし、主語と述語がどっか行くこともありませんし、文の頭と終わりが離れすぎて気づいたらねじれていた、という心配もありません。
直接的ではないかもしれませんが、短く考えることで、結果的にそういった技能に対するニーズも満たせる場合は多々あります。
「現代文どうしたらいいかわからん」と言う人は、これから問題集を解いたりするときは、「短く読む、短く考える、短く書く(そして後でつなげる)」を意識してトレーニングを重ねてみると良いのではないかと思います。
では、今日はこの辺で。