こんにちは。しめじです。
新学期がはじまって、約一か月。
高校生のみなさんは、新しい生活に慣れて来たでしょうか。
一年生であれば、高校生の生活に。
二年生であれば、先輩としての生活に。
三年生であれば、受験生になることを目前に控えた生活に。
ところで、高校国語について、よくされる生徒の質問があります。
「現代文ってどうやって勉強すればいいですか」
というものです。
私の主観ですが、やはり現代文は「だって私たち日本使って生活しているんだから、国語なんて勉強しなくてもいいでしょ」と思われがちな科目のようです。
ですが、そうじゃないから科目になっています。
私たちが生活の中で使う言葉は、広い広い言語によって担われる活動のほんの一部。
だから、やっぱり学習し、訓練しないと、生活で使う日本語の外に自分の能力を広げていくことはできません。
だから、やっぱり躓く。
というわけで、今日は「現代文ってこうやって勉強すればいいよ」という話をするわけではないのですが、
・なぜ、現代文って難しく感じるのか。
・なぜ、現代文は「できるようになった」感覚が無く、どう勉強したらいいかもわかりにくいのか。
・そもそも、ここから現代文を伸ばすことはできないのか。
という三点について、私の個人的な考え(ですから、真理であるとは限りません。そもそも、この手の問題に真理なんざありません)を書こうと思います。
一応断っておくと、今回は「評論」に絞ってお話しします。
また、一応題に【オトコク】を入れている通り、高校生の方向けではありつつも、大人になってからふと思う「そういえばなんで現代文なんて科目があったんだろう」とか、「結局何で難しかったんだろう」とか、そういうぼやっとしたものに対して、何か手掛かりになるような内容にしていけたら、と思いますので、どうぞお付き合いよろしく願いします。
なぜ、現代文って難しく感じるのか。
なぜって、現代文はそもそも難しいからです。
一口で「難しい」と言っても、実際は様々です。
- 語句が難しく、そもそもその文がどのような情報を持っているのかを把握できない。
- 主張と理由、具体例と抽象など、文の要素要素の飛躍が大きく、理解が追い付かない(文の展開を掴めないとも言います)。
- 抽象度が高く、文の情報としては理解できるが、何を意味しているかは把握できない。
などなど。
個人的に、生徒が一番「現代文難しい」と嘆くのは三つ目のパターンが多いのではないかと思っています。
一番上は、そもそも「難しい」と自覚することすらできず、「これは私のレベルで読めるものではない」というあきらめに近い感情が出てきます。
真ん中は、要素要素の理解はできていることが多いので、答えを書くと間違っているけど難しいと感じているわけではなさそうです(それが大失敗なのですが、その話はまた今度)。
一番下が、一番苦しい。何が書かれているのかは分かるけど、何を質問されてもどう答えたらいいか分からない。
だから、「もう少し出来るようになればイケる気がするんだけど、出来ない」という実感が強く、「難しい」「勉強しなきゃ」となるようです。
現代文は、そもそも扱う素材が5教科の中でも極めて抽象度が高い科目の一つです。
もちろん一番は数学であることが多いと思いますが、数学はそもそも物事の感覚的性質から最も離れた次元で語るので、自分の肌感覚などとは一切切り分けて思考することが出来ます。
一方現代文は、使われている言語が「言葉」です。
つまり、私たちはそれらの言葉が持つ具体的イメージをすでに自身の感覚や経験として持ってしまっている場合が多い。
にもかかわらず、現代文で扱う素材はそういった既存の感覚として持っている言語理解とは別の段階で抽象的な場合も多々あるので、結果的に「自分が身構えている以上に」抽象的になってしまうということです。
例えば、めちゃくちゃ痛いぞと脅されまくってから受けた注射を、「あれ、こんなもんか」と思うことがある一方で、毎年受けているはずのツベルクリンがアホ程痛く感じる時があるのと似ているのではないでしょうか。
数学は、抽象度が極めて高いことを理解しているから、「そういうもん」として受け入れられる(あるいは諦められる)。一方、現代文はなまじっか「使ってる日本語」のつもりでいるから、その抽象度を余計に高く感じてしまう。所謂ギャップってやつですね。
存在を存在として研究し、またこれに自体的に属するものどもを研究する一つの学がある。
この学は、いわゆる部分的(特殊的)諸学のうちのいずれの一つとも同じものではない。というのは、他の諸学のどの一つも、存在を存在として一般的に考察しないで、ただそれのある部分を抽出し、これについてこれに付帯する属性を研究しているだけだからである。たとえば、数学的諸学がそうである。さて、我々が原理を尋ね最高の原因を求めているからには、明らかにそれらはある自然(実在)の原因としてそれ自体で存在するものでなければならない。(「形而上学」)
この文章、アリストテレスの「形而上学」という本の一節です。哲学の文章ですので、とりわけ抽象度の高い文章です。
さて、なんて書いてあるかは分かりますか?
分かるという方の方が多いと思います。少なくとも訳されたこれは、辞書的な意味として難しい単語はあまり出てきません。
ならば、どういう意味の文章かわかりますか? 例えば友人に、「これ、どういう意味? わかりやすく説明してよ」と言われたら、わかりやすく言い換えて説明できそうでしょうか?
…私は自信ないです。
もしも現代文で、
問:傍線部A「他の諸学のどの一つも、存在を存在として一般的に考察しないで、ただそれのある部分を抽出し、これについてこれに付帯する属性を研究しているだけだからである。」とあるが、どういうことか。「数学」を例に挙げて説明せよ。
みたいな問題が出たら地獄です。
つまり、書かれている文の語義的な理解は可能だが、書かれている内容を自分の知識や経験と結びつけられる具体的なレベルにまで落とし込んで理解することは難しいわけです。
これが、現代文の難しさの正体のひとつではないでしょうか。
というところで、今回はおしまいにしておきたいと思います。
続きはまた次回。
では、今日はこの辺で。