【オトコク】寒い冬の夜だから、ちょっと古典の話をしようか-第二夜

こんばんは。しめじです。

前回は、『枕草子』が大好きなので枕草子の話をしていたんですが、今夜はその続きです。

『枕草子』は、ざっくりわけて、

・清少納言が素敵だと思ったものごと、あるいは素敵ではないと思った物事などを、テーマ別に並べた内容(類聚的章段)。
・貴族としての日常生活の様子を描いた内容(随想的章段)。
・清少納言が仕えた中宮定子との日々を描いた内容(回想的章段)。

という三つの内容に分類できる、というのは前回もお話をしました。
上二つは前回書いたので、今夜はその三つ目のお話です。

目次

  1. 清少納言が仕えた中宮定子とは。
  2. 中宮定子の辿った人生

清少納言が仕えた中宮定子とは。

「中宮」というのは、天皇の妻の呼称です。意味はその時代時代の政治的闘争に左右されて若干変化していますが、ざっくりいうと天皇の奥さんトップです。
(ちなみに当時の天皇は基本的に一夫多妻制。男の子のお世継ぎが必要、かつ、今よりも圧倒的に子どもが無事に育たない時代でしたから。普通の貴族はいわゆる一夫一妻で、正妻は一人ですが、愛人に当たる人がいるのは普通でした)

で、定子は名前です。名は藤原定子。
一般的には「中宮定子(ちゅうぐうていし)」と呼ばれます。

清少納言は、この中宮定子にお仕えしていました。

もともと、中宮定子の母親が大変な才女で、その血を継ぐ中宮定子も大変聡明な人物であったとされています。素晴らしい和歌などの才能を持つ清少納言が仕えることになったのはある意味自然な流れだったのでしょう。

その中宮定子を、清少納言はそれはもうとんでもなく慕っていました。

二十三段などは、中宮定子の気品や漂わせる風情に、すっかり心奪われている様子が強く伝わってきますし(仕えはじめて間もないころのエピソードです)

七十八段の、女性同士ですこし賑やかに話したり、遊んだりする様子や、八十一段の、帝、中宮定子、伊周(これちか。中宮定子の兄です)と清少納言の和やかな、それでいて少し笑える話など、中宮定子との美しい日々が所々に差し挟まれています。

この、中宮定子を慕って慕って仕方がない清少納言の姿は、終盤の段落でも一貫しています。

ところが、最後の三百十九段。

(原文)
 この草子、目に見え心に思ふことを、人やは見むとすると思ひて、つれづれなる里居のほどに書き集めたるを、あいなう、人のために便(びん)なき言ひ過ぐもしつべきところどころもあれば、よう隠し置きたりと思ひしを、心よりほかにこそ漏りいでにけれ。
 宮の御前に、内の大臣の奉りたまへりけるを、「これに何を書かまし。上の御前には史記といふ書をなむ書かせたまへる」などのたまはせしを、「枕にこそははべらめ」と申ししかば、「さば、得てよ」とて賜はせたりしを、あやしきを、こよやなにやと、尽きせず多かる紙を、書き尽くさむとせしに、いと物覚えぬことぞ多かるや。
 おほかたこれは、世の中にをかしきこと、人のめでたしなど思ふべき、なほ選りいでて、歌などをも、木・草・鳥・虫をも、言ひだしたらばこそ、「思ふほどよりはわろし。心見えなり」とそしられめ、ただ心一つに、おのづから思ふことを、たはぶれに書きつけたれば、ものに立ちまじり、人並み並みなるべき耳をも聞くべきものかはと思ひしに、「恥づかしき」なんどもぞ、見る人はしたまふなれば、いとあやしうあるや。げに、そもことわり、人の憎むをよしと言ひ、ほむるをもあしと言ふ人は、心のほどこそ推し量らるれ。ただ、人に見えけむぞねたき。

(訳)
 この草子は、目に見え心に思ったことを、まさか他人が見ることもあるまいと思って、退屈な里暮らしの中で書き溜めたものを、生憎、人から見ればあまり気持ちいいものとは言えない言いすぎただろうところもあったので、隠しておこうと思っていたのに、不本意ながら外に漏れ出でてしまっていました。
 内大臣(伊周)が中宮定子様に献上なさった紙を見て、定子様が「これに何を書こうかしら。以前は史記というものを書いていらっしゃったそうだけど」などとおっしゃるので、「枕はいかがでしょうか」と申し上げたところ、「それならば、どうぞ」と下さったのですが、しょうもないことを、あれやこれやと、尽きないほどたくさんある紙に、書きつくそうとしたので、書いた自分でも意味がわからない箇所、言葉が多いこと。
 そもそもこれが、世の中の趣深いこと、人が素晴らしく思うであろうことを選びだして、和歌などのことも、木、草、鳥、虫のことも書きだしたのであれば、「思うほど良いものではない」という批判もあるでしょうが、ただ一心に、自分が思うことを、戯れに書いたものなので、ちゃんとしたものに混ざって、(世間での評判など耳にすることはないだろうと思っていたのに)「立派なものだ」などと読む人がおっしゃるそうなので、とても不思議な話です。
 尤も、人が憎むものを良いと言い、人が誉めるものを悪いというような私みたいな人間は、心の底を推し量られるのでしょう。ただ、これ(枕草子)が他人に見られただろうことが悔しく、腹立たしい。

だいたいこんな内容なんです。(もう少し続きますが、内容は枕草子が他人に漏れてしまった経緯について書いてあります)

ほとんど、暗い話が出てこない本です。何かを悪しざまに言う段はありますが、ニュアンスとしては「あれはないわー」みたいなものであって、怒りや憎しみなどの負の感情とは別のもの。

なのに、最後は恨み節のような内容になります。

中宮定子の辿った人生

と書くと大げさですが、清少納言が仕えた中宮定子が、どのような人生を送ったのか、ざーっくりと話してみます。

まず、定子の父は藤原道隆という人物です。役職は関白。そして兄の伊周は若くして内大臣(実務のナンバー4くらいと思ってもらって差し支えありません)。

家柄的にも、後盾的にも、中宮定子の境遇は申し分ないものでした。このままお世継ぎを帝との間に生み、無事に育てば、その子が皇位を継承することは間違い無い、それくらいの栄華です。

ところが、父道隆が急死。
関白には道隆の弟道兼(定子から見れば叔父)がなりますが、この道兼もまたすぐに亡くなります(もともと病気だったので、継いで七日で亡くなったそうです)。

ここで、その実力も相まって驚異の速さで内大臣まで登った伊周に、という話になってもおかしくなかったのですが、その後を継いだのは道兼の弟(つまり三男)であった道長。
父道隆という強い後盾に支えられていた伊周と定子の立場は急速に悪化していきます。

さらに悪いことに、ここで伊周が事件を起こします

花山法王(元・花山天皇。出家したので法王です)が、自分が思いを寄せる女性のもとに通っていると思い込んだ伊周が、花山法王を弓矢で襲撃します(伊周は弓の名手です。古典の教科書にも弓の話で登場しています)。

幸い、花山法王には被害はなかったものの、元天皇に弓矢を向けるのはとんでもない行為。

伊周は、定子の目の前で捕まっていき、流刑に。それを見た定子は、自分の居場所のないことを悟り、当時帝との子を身ごもっていましたが出家してしまいます。

その後、どうしても定子が忘れられず、定子の産んだ子に会いたくてしょうがなかった当時の天皇(一条帝)が、周りの反対を押し切ってもう一度宮中に迎え入れますが、一度は離れて出家した身。

周囲からの批判の目は強く、本来の天皇の妻たちに与えられる建物ではない家を与えられ、天皇も人目を避けて夜中に会いに来て早い時間に帰っていく、というような生活が続いたようです。その後、三人目を出産した際に定子は無くなりました。

貴族の、こと帝の周りの女性としては、惨めな最期だったと言わざるを得ません。

このような人生を送った定子を、栄えても衰えてもずっとそばで支え続けたのが清少納言でした。

本当であれば、屈辱的な出来事、苦しい出来事もたくさんあったのでしょうが、『枕草子』でそれらは語られていません。ひたすら、美しい思い出のみが語られます。

中宮定子の崩御は西暦999年のこと。『枕草子』は、西暦1001年には完成していたと考えられています。つまり、執筆時期は概ね定子の亡くなるころと重複しているはずなわけです。
(319段の冒頭に、「退屈な里暮らし」とありますから、定子が亡くなって宮中を離れたあとでしょう)

最後の段落で、恨みがましく「人に見られる気はなかったのに」と書いたこと、書くのに使った紙は中宮からもらったものであること、『枕草子』の中では中宮定子との美しい日々だけが描かれること。そして清少納言が愛して慕った中宮定子の人生。

こういったことを考えると、よく言われる「利発で、機転の利く、快活で社交的な女性」だけではない、清少納言の姿が浮かんでくるようにも思います。

では、今夜はこの辺で。

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