【オトコク】現役国語教師が好き放題語る「羅生門」 その参。

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こんばんは、しめじです。

今夜は、羅生門のお話三回目。
物語の結末部についてお話しします。

物語の視点の変化について。

どんな物語にも、「視点」が存在します。

一人称の物語であれば、当然その人物の視点で語られます。
三人称、または神視点であれば、物語を俯瞰したり、自由自在に登場人物の近くに飛んで行ったり。その視点そのものに人格を与えた二人称型の小説も、稀にではありますが存在します。
(二人称の作品なら、フェンテスの「楽園への道」や舞城王太郎「淵の王」などが個人的には好きです)

さて、この羅生門。
一般的な三人称の小説です。

そして、カメラは始終、下人を映し、下人と共に動きます。

冒頭部は、門のしたで雨宿りをする下人を映し、門に登った直後は、下人の代わりに楼の中の禍々しい光景を読者に伝えてくれます。
(そうすることで、下人本人の内面描写が巧みに回避されていることがポイントだと思います。ほどよく、「最低限」に留められていると感じます。人物像は伝わるけど、内面描写は控えめに。下人と読者の間に保たれる適度な距離感が、結末で強烈に効いてきます)

老婆と対決し、ねじ伏せ、刀を突きつけ、老婆の言い分を黙って聞く間も、基本的には下人に焦点が当り続けています。

ところが、最後。

 下人は、すばやく、老婆の着物を剥ぎとった。それから、足にしがみつこうとする老婆を、手荒く死骸の上へ蹴倒した。梯子の口までは、僅に五歩を数えるばかりである。下人は、剥ぎとった檜皮色の着物をわきにかかえて、またたく間に急な梯子を夜の底へかけ下りた。
 しばらく、死んだように倒れていた老婆が、死骸の中から、その裸の体を起したのは、それから間もなくの事である。老婆はつぶやくような、うめくような声を立てながら、まだ燃えている火の光をたよりに、梯子の口まで、這って行った。そうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこんだ。外には、ただ、黒洞々たる夜があるばかりである。
 下人の行方は、誰も知らない。

カメラを置き去りにして、下人は夜の底に飛び降りていなくなってしまいます。
この、読者をいきなり突き放す描写、読者と下人の間に決定的な隔絶が起きる瞬間が、下人の覚醒を強烈に印象付ける働きがあります。

そもそも、大抵は主人公側(生きていれば)にカメラが残ります。物語の中で変化し、喪失・破壊と救済・再生を経験するのは主人公であることがほとんどだからです。
ところが、これは読者が完全に主人公に取り残されてしまいます。

「下人の行方は、誰も知らない」は、芥川が書き直したことで有名な一文ですが、視点の位置を考えると、至って理解できる話です。

ちなみに、書き換える前の最後の一文はこちら。

下人は、既に、雨を冒して、京都の町へ強盗を働きに急ぎつつあった。

あまり変わらないようにも思いますが、先ほどの視点のことを考えると、やはり不自然だと感じます。
ここで下人の意図や考えを書いてしまうことで、せっかく生まれた「断絶」が台無しです。

下人が、梯子をとおってそれまでと違う世界に踏み込み、触れ、別の人間になったという一連の流れを考えるなら、その瞬間「我々読者が共有できない人格に覚醒した」ことをここまで強烈に印象付ける視点操作が無駄になってしまう。

学校では、「なぜ書き換えたと思いますか?」という質問があって、大体「下人の転落した人生の不吉さを、明言しないことで暗示している」とか書けば大体先生は満足してくれるんですが(もちろん、そこまで自力で書ければ十分です)、できればもう少し、せっかく芥川を読むなら、物語の構造に踏み込んで考えてみる余地があってもいいかな、とは思います。

余韻がない。

まあ、語弊があってもあえてこう書きました。

正確には、「余韻を味わうための文がない」です。
物語が最高潮を迎えたところで、鉈でぶった切るように物語は唐突に終わりを迎えます。
ここまで唐突な終わり方って、なかなかありません。

「天空の城ラピュタ」でいうなら、バルスを唱えた直後で物語が終わるようなもの。
ハリー・ポッターが、ヴォルデモートを倒した瞬間に終わるようなもの。
アルマゲドンで言えば、隕石破壊に成功した瞬間にエンドロールです。

余韻がない。

やっぱり、崩れていくラピュタを見つめ、また新たにたくましく生きていく決意をする少年少女の姿を見てからエンディングが見たいです。
死闘を経たハリーが、仲間と勝利を分かち合ったり、後日談を見てから、よかったねと思いながらエンディングが見たいですし、せめて隕石破壊という人類の命運をかけたミッションを成し遂げたクルーは地球に帰して家族とハグさせてあげてください。

その「余韻」にあたる部分を見ることで、私たちはその物語をしっかりと受け止めることができるんです。
中にはこの余韻があえてとんでもなく長くとってある作品もあります。住野よる氏の「君の膵臓を食べたい」が最近だと顕著な例でしょうか。
病に侵された女の子「咲良」は物語終盤で死ぬのですが(まあ、その死ぬ理由も特殊です)、意外とその後日談が長い。これは賛否両論あるようですが、人間にもたらされる「唐突な死」を受け入れることのリアリティの表現として、私はどちらかというと好意的に考えています。

でも、「羅生門」には一切それがない。
下人が「悪」に寝返った瞬間が鮮明に描かれ、その瞬間物語が終わります。

似た構造の小説だと、ぱっと思い浮かぶのは中村文則氏の「銃」です。
たまたま拳銃を拾った大学生が、撃ってはならないという理性と撃ってみたい誘惑の中で、次第に自分を見失っていくというのがとーってもざっくりした筋書きですが、結末が衝撃大です。

結末で起きる出来事はそこまで意外なものではなく、はっきりいって「まあフィクションを書く以上はそうなるよね」という出来事なのですが、すごいのはその終わり方。

「それ」が起きたその瞬間で終わります。
余韻も何もなし。人として超えてはいけないそのラインのあっちとこっちをフラフラしている主人公を、不穏な気持ちを抱えながら追い続けた読者が、いきなり取り残されておしまい。

というわけで、羅生門の終わり方について少しお話ししました。
別にそこまで高度な文学論というわけではありません。深掘りするともっといろいろ出てきますが、少しだけ「ほー、こういう見方もあるのかー」と思っていただけたら嬉しいです。

では、今夜はこの辺で。

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