【オトコク】現役国語教師が好き放題語る「羅生門」 その弐。

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こんばんは。しめじです。

かなり間が空きましたが、前回は「高校国語の教科書に載ってる作品といえば?」ランキング第一位(しめじ調べ)の芥川龍之介「羅生門」について、好き勝手に語り始めました。

今夜は、その続きです。

夕刻、門、梯子、一人。

前回は、時間の設定を切り口に、「不穏さ」の表現について話をしました。
今回は、それに加えて、「場所」についても話をしておこうと思います。

門。

「門」や「玄関」という、いわゆる入り口は、今も昔も「間」の境目を示す重要なオブジェクト。

例えば家で言えば、玄関は人間の出入り口という実用的な機能だけを担ってきたわけではありませんでした。
お正月に玄関に飾る注連縄も、もともとは大掃除を終えた家が、家を浄め終えたことを神様に示す目印としてかけられるようになったもの。そして玄関や門の前の門松は、歳神様の目印だと、一般的にはされています。

つまり、門や玄関は人間だけでなく、神様などをはじめとした目に見えないさまざまな存在の通り道だと考えられてきた、ということです。
風水では玄関が大変重要なファクターになりますし、「玄関掃除は特に念入りに」としつけられた人もいると思います。

私は高校生の頃から武道を教わってきましたが、やはり道場の入り口の掃除は特に丁寧にするよう、常に整理整頓しておくように師範に厳しく言われました。
神社の鳥居も、外側をとおってはいけないというのが当然のマナーとして存在していますし、東京都神社庁のHPには、鳥居では入る時も出る時も一礼するのがよいと書かれています。
大きな寺社の門に阿吽の金剛力士像一対が構えているのも、そこを通ろうとする邪気から中を守るため。

ようは、入り口が、重要な結界、境界線としての精神的役割を果たしてきた、ということです。
そして、この物語の舞台は「門」しかも、当時の都の主となる門です。内側は、人間の領域。その外側は、人間でないものの領域でもあります。

夕刻。

夜に向かう時間帯。人間が活動する昼間と、人にあらざるものが跋扈する夜の、その間。
この物語は、そんな人と人にあらざるものの境目で進みます。

その境界に一人たたずむ、善人としての心を捨てきれずに逡巡する下人が、生きるために手段を選ばない老婆と出会い、一般的には悪と形容される側の世界に転落していくというのが「羅生門」の筋書きですが、これをさらに効果的に印象付けているのが「梯子」です。

梯子。

この「羅生門」という小説を、視覚的に捉えると、実際は二つの場面に分かれています。

一つは、前半。羅生門の下でたたずむ下人が、行き場をなくし、途方に暮れ、手段を選ばず生き延びるべきか、そうせざるべきか悩みつづける場面。

もう一つは後半。羅生門の梯子を登った下人が、老婆を見つけ、対決し、老婆の論理によって覚醒する場面。

演劇であれば暗転は一回。フィルムで撮っても、最低二シーンです。
この暗転を生み出しているのが梯子です。

そもそも、物語の典型的な形として、トンネル、階段、ドアなどの空間的なしきりを跨ぐことが、二つの別の世界を跨ぐことにつながるという表現は至る所で見られます。

多くの人が見たことありそうな作品で言えば、「千と千尋の神隠し」。
お父さんが道を間違えて、辿り着いたのは山の中の古びた狭いトンネル。
ここを通り抜けることで、千尋とその家族は人間の棲む世界から神の棲む世界に迷い込むことになります。

「となりのトトロ」なんかもそうですね。メイが大樹の根本の穴に落ち、ひたすら転がった先でトトロに出会います。後半でトトロは普通に現れるようになりますが、初めてトロルの世界に転がり込むには穴が必要でした。
(ついでにいうと、トトロが現れるシーンは、さつきとメイが雨の降る夜のバス停で、父の乗っているだろうバスを待っている時です。あのバス停も、周りに人気がなく、負ぶっていたメイが寝てしまっているという、「さつきが一人でいる場面」です。他の人がいない、というのも、世界を跨ぐ時には外せない要素になってきます)

ホラーや怪談のよくあるパターンもそうですね。大体、真っ暗な洋館のドアを開けたら、山奥の廃精神病院に肝試しにいったら、林間学校の夜の肝試しで知らない道に入ったら、孤島にたどり着いたら、夜の学校に忘れ物を取りに忍び込んだら。

必ずと言っていいほど、ひとりぼっち(あるいは主人公たち少人数のみ)で、人目につかない中何かしらの境界を超えたり、長い隔絶を通り過ぎたことで物語が動き出します。映画だと、ドアをそーっと開けるシーンとか、必ずしっかり作られています。それくらい、越境するシーンって物語に必要なんです。

完全なシームレスで二つの世界が交差する物語は少数派です。シームレスに見えても、例えば目眩がして目を閉じ、また開けると世界が…とか、急に幻聴がして、誰かに呼ばれた気がして、振り返ると…とか、何か「自分だけに起きる越境」が発生していることがほとんどです。

そういった「越境」なしに、違う世界に迷い込むと言う手法は非常に難しい。

その「越境」の役割を、この「羅生門」では梯子が果たしているということになります。「梯子を登る」という特にどうと言うこともない行動が、物語を大きく動かし始める起爆装置になっているわけです。
(当然、梯子を登らず、雨宿りさせてくれる優しい人を探して下人が街に戻れば、話はそこで終わっていたわけですから)

まあ、これは元ネタとなった今昔物語集からすでにそうだったんですが、それを見逃さず、ちゃんと違う世界へ下人を越境させる装置として利用してるあたりが、やっぱり芥川すごいなあと思ってしまいます。

では、今回はこの辺で。
次回は、この小説の最後の場面について好き勝手なことを言おうと思います。

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